正直に言って、2024年は思っていた以上にいい1年だった。学部を良い形で卒業して、行きたかった大学院に進学して、やや将来に悩みつつも、インターンでやりたいことをしたり。8年近く推していたアイドルのファンも辞めたら世界が広くなった。幼稚園から20年近くの仲の同期とも何度か会えた。
最高の1年だったし、それなりの1年でもあった。そんな2024年を振り返り、2025年をどう生きるか考えた。
ぬるま湯を手に入れた24年上半期
「悔しい環境からの卒業と理想の地
大学(学部)を卒業してからもうすぐ1年が経つ。むしろまだ丸1年が経っていないことが信じられないくらい、24年はたくさんの経験や出会いがあった。それでもこうした「豊かな」24年が過ごせたのは間違いなく、この大学での悔しさを耐え抜いたからこそだったと思う。
僕はただ真面目に、真剣に、学問を探求したかった。しかしあまりにも、あの場所はそれに向いていなかった。それでも4年間耐え抜けたのは、学部3年の時からお世話になった指導教官との出会いであり、未熟な僕に真剣にコメントしてくれる研究者の方々との出会いであり、何よりも、こんなことで潰れてたまるかという狂気にも似た感情の存在だったと思う。
当時の自分は、「それなりに優秀で、それなりに経験を積んだ大学生」という自負があった。それなりに他者からもそういう評価をしてもらえていたと思う。しかし、一度、大学のラベルがそこに付与されると途端にその価値が低下したような、そんな感覚を持っていた。「大学名と能力は比例しない」と良く言うが、逆に言えば「大学名と能力は良いに越したことはない」という途方もない現実を突きつけられていた。
だからそういう意味で、負の感情に支配されず、のびのびとやりたいことをやれるようになれたこの選択は間違いではなかったと今ならはっきりと思える。学部4年で卒業して就職する選択もあることにはあったが、それでは得られなかった人や機会があまりにも多い1年だった。第一、そうしたコンプレックスを抱えたまま社会人になることを選ばなかったのは本当に自分のためにいい選択だった。
理想の環境
そうして大学院という、それもそれなりに名の知れた大学院で研究を続けるということは2つの意味で重要だった。1つは研究者を養成する機能を持っている大学院に進学することで、アカデミアに進みたいと思った時に、必要以上の遠回りをしないで済むということ、そしてもう1つは自分の負の感情を完全に断ち切り、外的な要因に責任を帰着できないようにすることだ。
1つ目の理由はかなりニッチかつ、明確な証拠がない話ではあるし、人によっては反論があるテーマなのであまり触れない。2つ目の理由こそが東大と一橋の2校しか受けなかった理由の多くを占めていた。他者からの評価において、自分の本来的な能力やスキル以外の部分でマイナスになるような部分を排除したかった。
他者の評価なんてどうでもいいというのは簡単だし、実際に今でもそう思っている部分は大いにある。それでも気にするのは、それによって挑戦できる環境に差があることを薄々感じていたからだ。そしてこの部分を自分が気にしなくなれば、もっと磨くべき自分の能力やスキルに集中できる。
そうしてなんとか無事に進学した一橋は「研究大学」の名に恥じない、教員、学生が集まっていることはすぐに実感した。最初の学期の授業で当たり前に英語の文献がリーディングリストに入っていたり、本当の意味でそれを読んでいることを前提に授業が進む。そしてその解釈について問われる。「サイバー空間と国際政治」という授業では、タリンマニュアルというサイバー空間における国際法(のようなもの)を示したドキュメントを参照しながら実際のサイバー攻撃事例を分析したり、認知戦における最新の攻撃事例を取り上げながらどのように対処が現行法において可能かを検討したりと、予習復習が大変だったが面白い授業だった。レポートではハクティビズム(ホワイトハッカーによる社会運動)の事例を取り上げ、イスラエルによるガザ地区での虐殺に抗議を示す方法としてのハクティビズムの可能性について検討した。
そして何よりも、自己紹介で名前の次に聞くのが研究テーマであることの面白さ、興奮は何にも変えられない。知っている分野であればその方法論や、問題設定の仕方が気になるし、知らない分野であれば、そもそもどういう分野なのかを互いに紹介し合う面白さがある。「時代は海外だ」(こういう場合の多くは米国or英国の2択であることが多い)とよく言うが、皮肉にも日本の人文社会系大学院の日本人学生の進学割合はそう高くないので、アジアを中心に多国籍なので各国のお国事情やそれらと研究テーマがリンクしていたりして面白い。
こうして僕は、4年の修行期間を経て、「理想の環境」とも呼べる場所に落ち着くことができた。しかし落ち着きすぎた。
茹でガエルになりかけた24年下半期
「普通」の日常
「理想の環境」はあまりにもユートピア過ぎた。徐々にユートピアがぬるま湯になっていることに気づきながらも、そこから脱することはもちろん、どう脱していいのかも分からなくなっていた。 修士の研究も何度か気合が入りきらない時期がありながらも、着実に一歩一歩前へ進めている感覚があった。インターンも特段不満なく、やや忙しいながらもできることはやっていたつもりだった。あまりにも日々が「普通」過ぎた。
強いて言うなら、就職活動を舐め過ぎていた。院まで上がってSPIなるペーパーテストを受けることになるとは思わなかったし、院生に「ガクチカ」を聞いてくる面接官は本当にバカなのかと苛立ちを超えて志望すらしなくなった。それでもなんとか夏の終わりには一社、それなりにいい条件の会社の内定を得られた。むしろ「普通の日常」が加速した。
今思うと、変化に対するモチベーションはおろか、変化することが怖かったんだと思う。むしろどうしたらこのユートピアを終わらせずに済むのか、そういう方向に思考が向かっていた。
Wise choices?
下半期には大きな選択を2つすることになった。
1つ目の選択は望まぬ形で、予期せず訪れた。そのことを知ったのは10月の末頃だったと思う。インターン先の人生でもトップ5くらいに尊敬する人が退職することになった。単に退職するだけならまだしも、僕はその人に関わる業務全般をミッションで持っていたので、退職は僕の無職化を意味していた。
確実に業務量が減ることが分かった時、もう一社のコミットメントを増やすか、別のところに行くかの2択があった。そこで僕は「カタリバのトラウマ」を超克すべく、ソーシャル領域で何かすることを考えた。カタリバで社会課題に取り組む中で感じた無力感や、ソーシャル系NPO、スタートアップの市場の小ささ、人材の競争力のなさを克服し、「ソーシャルスタートアップを中心に、倫理的・健全な資本市場を形成することは可能か?」という問いの解像度を上げてみたくなった。そこで京都のソーシャルスタートアップ支援組織でありVCであるtalikiにインターンとしてジョインすることを決めた。
2つ目の選択はPIVOTとリバースタジオを卒業することだった。諸事情で辞めなければいけない理由ができたからだった。詳細は書けないが、ネガティブな話ではなく、他に行きたいと思える場所があり、お声がけいただき移ることになったために必要な選択だった。とは言え、この選択が「wise choice」だったかはまだ分からない。少なくとも今はまだそうとは思えていない。
こうした2つの選択の果て、24年12月に刺激的な出会いに巡り合うことができた。正直に言って、この出会いがなければこれほどまでに気持ちよく24年に別れを告げ、25年を迎え入れる気持ちにはなれなかったと思う。むしろこの出会いがあったからこそ、24年を良い形で締めることができたと思う。
刺激的な方々との出会い
それらの出会いは京都であった。
1つ目の出会いは「日ASEAN Future Generationビジネスリーダーズサミット」に参加していたASEAN各国の若者(と言っても30歳前後)との出会いだった。彼らは皆、Forbes 30 Under 30 Asiaに選出されている若い世代の起業家で、母国語に加え、英語は当然に話せるだけでなく、それなりの規模で事業を展開していた。彼らとの出会いは本当に新鮮で、刺激的だった。こんなに野心的で、それでいて研ぎ澄まされた感性、知性を持っていて、自分の小ささを嫌というほど実感させられた一方で、久しぶりにそう思わせてくれる出来事だった。5年後はおろか、来年どうありたいかも考えていなかった自分のろくでもなさに気づき、もっと野心的に物事に挑戦するためのエネルギーをもらえた。
そしてもう1つの出会いもこのサミット期間にあった。これもまた、尊敬し、ロールモデルにしたいような方々とサミットを通じて、そして「京都の不思議な縁」を通して出会うことができた。この出会いが決定的に今の自分に何が足りていなくて、なぜ今こうあるかを気づかせ、どうすべきか考えるきっかけをくれた出来事だった。
これらの出会いを通して自分がぬるま湯で安心しきっていただけでなく、内に秘めていた野心的な目標やビジョンに見てみぬふりをし、現状維持・安定を求めて日々を過ごしていたと思うように変わった。僕はもっと野心的で挑発的で、エネルギーに溢れているはず。25年はやるぞ!と炎を燃やし始めて24年の幕が下りた。
2025年は「脳に汗をかききった」と思える年に
ビジョンドリブン
24年を振り返ると、改めて自分がネガティブなエネルギーを前への推進力に変えてここまで来たことを実感する。中学から高校にかけて、高校卒業後のギャップイヤーから大学進学、そして大学時代とずっとコンプレックスを見つけてきてはそれを潰そうと必死になってきた。その果てに今、「大いなる敵」なき日々を獲得した。そして今、本当に炎を燃やすべきは過去の自分であり、そして実現したい未来までの自分であると思えるようになった。25年はマイナスを0にするのではなく、今あるプラスいくつかをさらに大きくするために、ネガティブドリブンからビジョンドリブンへと思考を転換して日々の時間を大切に使っていきたい。
Re:不安を飼い慣らす
そしてもう1つ大切なことに気がついた。僕は若くして成功することに大きな憧れを抱いていた。なにせ多感な時期を「女子高生社長」や「現役大学生起業家」といった、NewsPicks黎明期、まだ地上波メディアがギリギリアジェンダ設定機能を持っていたタイミングで過ごしたこともあり、そうした成功に対する解像度も憧れも強かった。自分がもうその年を過ぎ始めていることが、心の奥では本当は悲しく、悔しかった。
しかし冷静に考えてみれば、人生はまだ60年くらいは続く。そして続くように頑張りたい。逆に言えば”まだ”20代に過ぎない。まだまだたくさん悩み、経験を積む時間はある。短期的な成功ばかりに集中してはいけなかった。不安を不安として処理せず、飼い慣らして推進力にしようという思考のスイッチがなくなっていた。
とは言え、時間はあるが時間はない。悩んだり、もがいたり、そういう類の時間はあれど、だらだらといつかを待っているほどの時間はない。だからこそ何に時間を使うのか、どのくらい使うのか、そして自分の人生において優先するべきことは何なのか、考え、実践し、そしてまた考えながら、25年は毎日を有意義なものにしたい。
「不安を飼い慣らせ」は中学生の自分が20歳の自分に宛てて書いた手紙にも書かれていた。
脳に汗をかき続ける
何よりも24年は脳に汗をかく、コンフォートゾーンから飛び出す経験に乏しかった。コンフォートゾーンを飛び出し、初対面の人とお酒を飲み交わす機会を掴んだおかげで出会えた縁も24年にはあった。だからこそ25年は(健康を害しない程度に)刺激を入れながら、脳に汗をかく年にしたい。もっとコンフォートゾーンを抜け出して経験を積んだり、時に自分を押し殺して求められている役割や、理想的な役割を演じてみたりしたい。頭で考えるだけでなく、時に馬鹿になりきって、失敗も成功もしてみたい。
その意味でも、挑戦する機会をどれだけ得られるかが大事になってくる。人付き合いも苦手だし、自己主張も好きではないけど、思っている以上に他人に自分のwantを言わずに伝えることは難しい。自分を知ってもらい、時に機会を掴みに行き、時に機会が訪れるように、日々精進したい。
クレドとビジョン
このように有意義で充実した25年を過ごすために、数十個のクレド(行動指針)を作った。もちろんすべてを毎日達成することはできなくても、毎日振り返って、もっとこうしようああしようと作戦会議をするための立ち戻るべき場所として。自分が迷った時にもここに戻り、進むべき道を決める指針にしたい。
- Choose what you love and stick with it.
- 社会を良くする・社会の役に立つ仕事に集中せよ
- 想い・感情だけで働くな
- 論理的に思考、感情には敏感に
クレドはビジョンなくして成り立たない。具体の人物ベースで理想とする人と出会えた以上、何がどう理想なのかを言葉にし続けたい。そして来年、5年後、10年後と、書いてみるとやりたいことは思っていたよりも明確にあった。これを実現するためには来年どうあるべきか、そして5年後こうあるには今何すべきか?と考えて、そして行動して手触り感のあるものを増やす年にする。