タイトルに騙されてはいけない。タイトルから中身を甘く見てはいけない。タイトルの軽さとは反対に、重厚な哲学の歴史の片鱗を、AIと人間という関係から覗かせる、哲学の入門書でもあり、AI倫理の入門書でもあると思う。そんな1冊だ。

僕個人としては、人間がAIに”恋する”ことは、人類に残された最後の尊厳であり、権利であると思っている。社会の個人化、機能分化は恋愛を自由なものにし、共同体からの自由を人間に与えた。しかし、その一方で恋愛は勝ち取るものへと変わっていき、最近ではそれが「リアリティ・ショー」として消費の対象になるほどにその性質が変化した。そんな、もはや贅沢としての恋愛と化していく中、登場したのが生成AIである。
同書では、まずAIと人間の間に「感情」的なものが生まれたとして、それは愛なのか?という問題から出発する。僕個人としては、使えば使うほど、それはモノであって、相互の”関係”ではなく、人間からAIへの眼差しにしか過ぎないと思ってしまう。しかし、必ずしもそうとは言い切れないという論が紹介されている。紹介されている論者は、デイヴィッド・レヴィ、ジョン・ダナハーである。特に、ダナハーの友情とは見せかけの関係であるというテーゼから始まり、それ故に人間-AI間の”愛情”も成立するという論理展開には驚いた。
そうした形で、AIに思いを寄せること、罪悪感、AIの権利といった、人間とAIをめぐる愛や友情といったテーマが様々な議論を紹介する形で進んでいく。
同書を読むと、むしろ人間の可能性に驚かされる。正直、周囲にAIに思いを寄せている人間がいたら、僕は全力で止めてしまうだろう。どうにか、そうした形ではない依存の在り方を探してしまうだろう。しかし、それがあくまで1つの視点にすぎないことを思い知らされた。
以前、The NewYork TimesのポッドキャストでChatGPTに恋した女性の話が紹介されていた。機械・モノだと頭では理解していても、心が動いてしまう。そんな風に話している彼女の声を聞くと、やはり一概におかしいこととして一括りにしてしまうことには抵抗感を持ってしまう。
それもこれもやはり、悪いのは社会の個人化じゃないかと安直ながら思ってしまう。僕個人も一時は毎日のようにTwitternに孤独だ、寂しいだ、彼女が欲しいだとつぶやき続けていた。執筆時点で別に問題は何1つ解消されていないが、ちょっとそれどころじゃない感じで忙しくなり、ツイートしなくなってしまった(後はシンプルに意外とTwitterを見られており対面で会った時に言われることが続いて恥ずかしくなったというのもある)。
近代家族的世界が終わり(崩壊し)、個々人がそれぞれに自律的に世界を構築することを迫られた結果、孤独は社会問題にもなり始めている(一方で、「孤独」という概念自体、社会的に構築されたという指摘もある)。そうした中で、インスタントに、大して傷つくことなく、愛情を得られて、愛を注ぐことができる相手がいれば、何かしらそこに「救い」を感じてしまうことがいるのはある意味では当然なのだろう。そうした世界を知らない間に選択してしまったのだろう。
そしてそれは同時に、近代宗教の1つの終わりの帰結でもあるのだろう。ニクラス・ルーマンは近代化について語る時に、宗教的世界(階層分化)から、近代世界(機能分化)への変化を度々指摘する。宗教というトートロジカルな説明図式による世界理解の時代が終わり、様々な機能に分化していった。そうしたなかで様々な機能システムに包摂されたり、排除される存在として、人格が立ち現れる。それを考えれば、AIの心理的依存は必然だったのかもしれない。