消費者研究で有名な社会学者、林凌さんの新刊が出た。前回の『〈消費者〉の誕生』はいわゆる研究書だが、今回は中公新書ラクレから。読みやすさ、とっつきやすさがある。

そう思って読み始めると、その議論の丁寧さと論理の緻密さに脳が汗をかく感覚に襲われた。しかし、敵が敵だけにこれは仕方ないし、こうあるべきなのだと思う。この本で批判の対象となるのは、「〇〇消費」というキーワードで使われることが多い、「消費」という概念だ。
最近でこそ下火になった感もあるが、20年代初頭には「コト消費」という言葉を聞かない日はなかったような気がする。コト消費の他にも、物語消費や、応援消費など、いかにも頭の悪いマーケターが、自分よりも頭が悪いと思って止まない”消費者”に消費させるために作った気持ちの悪い言葉がネットやテレビ、新聞を駆け巡っていた。
この本ではその「消費」という概念がどのように生まれ、そしてどのように用いられたきたのかを分析している。手法は極めて社会学的で、社会学を学び始めた人には研究方法についてのアイデアを増やすという読み方ができるかもしれない(しかしこの手の研究、特に「誕生」系は難易度が高い)。
本書では、なんちゃら消費の中でも、「コト消費」、「性的消費」、「応援消費」が議論の対象に挙げられている。そう。まさに批判的に語らるべき言葉の数々が、本書で誕生の経緯から使われ方に至るまで丁寧に分析されている。
ここでネタバラシはしないが、結論はやや平易、想定を超えるものではなく、「〇〇消費」という言葉は何かを論じた気になるという効用がここまで使われ続けた要因にあると筆者は結論づけている。しかし、この結論自体、十分な検証なしに言えば、それさえも「何かを言った気になるワールド」の中に閉じられる。3章を割いて分析したからこそ、得られた結論であるということは考慮されるべきだろう。
その上で、このどうしようもない消費ワールドには嫌気が差す。「推し活」もその1つだ。何もかもを「推し」という言葉でまとめて愚かな現代人は何かを語ろうとする。しかし、僕に言わせれば「推し」とは、主体性・当事者性からの退却だ。また別の機会に書きたいとは思っているが、推しという言葉は自分の好意、愛情をある意味でメタ的に処理できる便利な言葉だ。「主体(I)が、対象Aに特別な感情を有している」状況をメタ的に指示する言葉が「推している」、あるいは「推し」だからだ。
そうやって現代人はまた、傷つくことから距離を置く。そうして不確実性への耐性を失っていく。推しとかキュンとか滅とか言ってないで、真正面から他者を愛し、時に真正面から拒絶されたらいいじゃないですか。