正論では現場は動かない
ここまで、日本のテレビが猛暑や豪雨を大量に報じながら気候変動にほとんど言及しないこと(第1回)、そしてその背景に、視聴者像への最適化、説教臭さへの恐れ、気候変動の非・出来事性、映像主義という幾重もの構造があること(第2回)を見てきた。
構造が問題なのだから、構造を変えればいい。視聴率に依存しない番組評価を作れ、報道局に気候変動の専門部署を置け、ニュースバリューを見直せ。正論である。そしておそらく、正論のままでは何も動かない。現場には現場の合理性があり、その合理性を無視した提案は編集会議を通らないことを、第2回で見てきたばかりだ。
だから最終回では、現場の論理に乗ったまま、明日から実行できる一手を考えたい。結論から言えば、猛暑や豪雨のニュース原稿に「気候変動の影響で」という8文字を足すこと。それだけである。
イベント・アトリビューションという科学
まず、この8文字を支える科学の話をしたい。
気候科学には、イベント・アトリビューション(EA)と呼ばれる研究分野がある。個別の異常気象について、気候変動がその発生確率や強度をどれだけ変えたのかを定量的に割り出す研究だ。たとえば2022年にインドとパキスタンを襲った熱波や、欧州や北米の山火事について、「気候変動がなければ、この現象はこれほど起こりやすくはなかった」という形の評価が次々と出されている。かつて「個々の気象現象と気候変動の関係は科学的には言えない」というのが決まり文句だったが、その時代は終わりつつある。
この知見を報道に還元したものが、EA報道である。猛暑を報じるときに、それが気候変動によってどれだけ起こりやすくなっているのかを併せて伝える。海外では既に実践が進んでいて、英ガーディアンをはじめとする各国メディアは、熱波、洪水、ハリケーン、山火事の報道で気候変動との関連を明示している。2019年に始まった国際的な報道連携 Covering Climate Now は、異常気象を報じる際に気候との接続を明示すること(making the climate connection)を各社に呼びかけ、日本からもNHKや朝日新聞などが参加している。
つまり、科学的な裏付けも、国際的な実践例も、参照できるデータも揃っている。足りないのは、日本のニュース原稿の中の8文字だけなのだ。
弱みではなく強みを使う
ここで、第1回のデータを思い出してほしい。テレビの猛暑報道は年間780本を超えていた。私はこれを「単純報道ばかり」という課題として示したが、見方を変えれば、これは日本のテレビが持つ最大の資産である。
猛暑や豪雨のニュースは、珍しさと情動というニュースバリューを満たし、映像も撮りやすい。汗だくの通行人、打ち水、かき氷、濁流。テレビが最も得意とする報道であり、だからこそ年間780本も作られている。新しい特集枠も、追加の取材コストも、高価なCGも要らない。既に毎日作られているこの膨大な報道に、原因への言及を一言差し込むだけで、単純報道はEA報道に変わる。
第2回で見た構造的な壁を、この方法がどうすり抜けるかを確認しておこう。
出来事性の問題。猛暑や豪雨はそれ自体が出来事なので、出来事がないという壁は最初から存在しない。既に成立しているニュースに相乗りするだけだ。
映像主義の問題。画は既にある。猛暑の画も豪雨の画も、毎日撮られている。
そして説教臭さの問題。ここが最も重要だと私は考えている。従来の気候変動報道が説教臭く受け取られたのは、因果の説明を欠いたまま行動変容を求めてきたからだ。EA報道は逆の順序を踏む。視聴者が今日まさに体験した暑さについて、その原因を説明するだけで、何かをせよとは言わない。「今日の猛暑は、気候変動の影響で従来より起こりやすくなっています」という情報は、道徳ではなく解説である。上から促されるのではなく、自分が汗をかいた経験の意味を教えられるのだから、視聴者は「これは自分に関係のある問題だ」と自然に理解できる。押し付けではなく、腑に落ちる説明。説教臭さの正体が「手立てのない問題の責任を引き受けさせられる感覚」にあるとすれば、責任ではなく因果を渡すEA報道は、その地雷を踏まない。
もちろん、単なる決まり文句として8文字を機械的に付ければいいという話ではない。理想を言えば、「この熱波は気候変動によって2倍起こりやすくなった」といった定量的な知見まで踏み込みたい。科学的推計には不確実性が伴うし、速報性との両立という実務的な課題もある。しかし国際的にはEA研究の手法や評価基準の標準化が進んでおり、報道での扱いやすさは年々上がっている。既存の気象解説の枠組みに原因帰属の視点を足すことは、テレビの強みの拡張であって、無理な背伸びではない。
続けるために必要な2つのこと
とはいえ、8文字はあくまで入口である。一過性のキャンペーンで終わらせず、報道の標準装備にしていくためには、もう少し深いところに2つの変化が要る。
ひとつは、視聴者像の刷新だ。第2回で見たように、報道を縛っているのは実際の視聴者ではなく、テレビが内部で構築した「気候変動に無関心な視聴者」という像だった。しかし世論調査が示す実像は、9割以上が関心を持ち、世界的には約7割の人が気候変動の解決策についての情報を求めている、というものである。この実像に合わせて視聴者像を更新できれば、ニュースバリューに「社会的影響度」という基準を加える余地が生まれる。鍵を握るのは編集長だ。ニュースの選択と放送尺を決める編集長がラインナップを変えれば、記者にとっての「取材すべきニュース」の定義が変わり、現場の行動が変わる。変化は号令ではなく、日々の編成判断の積み重ねから始まる。
もうひとつは、科学的知識を参照する体制である。日本の記者は複数の省庁を掛け持ちで担当するのが普通で、気候変動の専門記者はほとんどいない。専門家になる必要はないが、素養は要る。専門家との継続的な連携や、気候変動を担当するポストの設置など、科学的知見へのアクセスを個人の勉強任せにせず制度化することが、EA報道の精度と持続性を支える。幸い、テレビには気象予報士という科学と放送をつなぐ人材が既にいる。民放各局とNHKの気象キャスターたちが連名で、日常の気象情報に気候変動を関連づける発信の重要性を訴えた声明も出ている。現場の意思は、もうあるのだ。
公害報道は社会を変えた
最後に、悲観に傾きがちなこの話題を、歴史の話で締めたい。
1960年代から70年代にかけて、日本のマスメディアは公害を大々的に報じた。加害企業を追及し、被害者の窮状を伝えた報道の蓄積は世論を動かし、一連の法改正と環境庁の設置につながったと複数の研究者が指摘している。メディアが問題を問題として立ち上げ、社会を動かした前例は、他ならぬこの国にあるのだ。
気候変動は公害より扱いにくい。加害者と被害者を切り分けられず、出来事がなく、画にならない。それでも、体感という強力な入口だけは、公害の時代よりむしろ恵まれている。誰もがこの夏の暑さを知っている。あとは、その体感と科学をつなぐ一言があればいい。
危機意識が高まらないのは、私たちの感受性が鈍いからではない。体で感じている変化と、科学がつかんでいる原因との間をつなぐ情報が、設計上流通していないからだ。逆に言えば、経路さえつながれば、毎年の夏の暑さは「運の悪い年」の記憶ではなく、「対処すべき進行中の危機」の実感に変わりうる。
その最初の一歩は、拍子抜けするほど小さい。今日の夕方のニュース、猛暑のコーナー。アナウンサーの原稿に、8文字を足すことだ。
「気候変動の影響で」