公共心を生かして働くこと
2026年9月9日、「2020年代の公共心はどこへ向かうのか」と題するイベントに登壇した。進行は馬田隆明さん、対談相手はPMIで仲良くしている小林くんで、20代の自分たちが公共心をどう仕事に接続しているか、あるいは接続できていないかを話した。
議論の軸になったのは2つの問いだった。1つは公共心を生かした仕事とは何かという問い、2つ目はその具体例として防衛テックは公共心を活かした仕事と言えるのかという問いだった。会場からも質問が出て、2時間弱の対談は表面的には、それなりには、成立していたように思う。
噛み合わなかった論点
ただ、終わってから残ったのは反省だった。反省点は1つで、論点が最後まで定まらなかったことだ。イベントの前提には公共心の不在、あるいはその再興という問題設定があったはずだが、それが登壇者の間でも、会場との間でも十分に共有されていた感覚がなかった。
公共心が足りないと言うとき、それは何が足りないことを指しているのか。防衛テックに携わることは公共心の発露なのか、それとも別の何かなのか。そもそも、なぜ「公共心」が問題になるのか。こうした前提の擦り合わせをしないまま各論に入ってしまったために、話は積み上がらず、個別の感想の交換で終わった。
問いたかった論点
僕が最も、そして現在でも説い続けている問題意識は、「自分のスタンスは何で、どう生きるのか」ということ。より具体的には、社会と自分の関係をどう捉え、そしてその上で自分は何に時間を使うのかということだ。
例えば、製薬会社で働く友人は、自分の仕事の「主観的な」面白さと、そのブルシットさの間で揺れている。個人として、経験としては面白いし、それなりにお金ももらっている。しかし、その仕事が”本当に”必要なのか、重要なのか、社会的インパクトがあるのか、彼女は時折迷っている。そして、自分が持っている能力と、望んでいる生活ラインと、そして何よりも今以上に社会的インパクトを生み出すことができる仕事に転職することを時に考えている。
例えば、SaaS(Software as a Service)系のスタートアップで働く友人は、新卒入社からの成長速度を重視してそのスタートアップに就職した。日々遅くまで働きつつも、休日には思考を深めたり、人間関係を豊かにしたり、私的な領域で自分なりに面白いことを自分で企画している。彼にとって一番重要なのは、自分が打席に少しでも多く立ち、経験を得て、そして学びを血肉に変えていくことのように見える。前述の女性とはまた異なった価値観を持っている。
私は前述の2人のミックスバージョンのように思える。社会にできるだけ善いことをしたい。そう思って就活をしていた。しかし、ソーシャルセクターは待遇が何とも言えないし、コンサル業界では間接的過ぎる。そこで民間財団を選び、選ばれたので入会したが、2週間ほどで辞め、現在は防衛領域での事業を拡大しているAIスタートアップにジョインした。私個人としては社会に善いことをしたいという気持ちは変わっていないし、今も同様に善いことをしていると思っている。むしろ、中間支援組織であった財団よりも、事業会社の現在の方がより近くにいる感覚を持てている。そして何より、3年以上のメディアでのインターン経験、大学・大学院での社会学のトレーニングという持ち札とマッチした業務を行えている今、キャリアとしても全く不満を感じていない。
つまり、「私と社会」、「社会の中の私」を、自分なりにどう定義するのか、そしてその上で、どんなことに時間を使うのかを考え、そしてそのテーマにコミットすることが大事なのではないだろうか。そしてそのことを問いたかった。
「公共心」は語りの1変数にすぎない
では、イベントのテーマでもあった「公共心」とは何だろうか。公共心とは、自己の語りの1つの変数である。自分の行為や意思決定、自分の状況(state of me)の説明の変数の1つとして存在する概念であるだろう。
デジタル大辞泉によれば、公共心とは「公共のためを思う心。社会一般の利益を図ろうとする精神」である。語彙の定義からしても、極めて主観的なものであり、0/100のものでもない。
だからこそ、公共心は己を説明する上で、重要な概念になるのである。例えば、官僚を志望し、そして官僚になった若者が、自らの進路選択の決定とその前提となる考え方を呈示する場合に「公共心」という言葉を使うだろう。
前述の製薬会社の女性も同様だ。学生時代は医療系のスタートアップでインターンをしていたり、宗教的な価値観もあって、公共心というものは今までも、そしてこれからも彼女の人生においてのキーワードになるだろう。
私も同様に、業界という意味では、米中という巨大でかつ強力なAI技術を持つ国に挟まれている島国として、一定の主権性を守りつつ、そしてその能力を生かした外交に資することができればと思っている。職種という意味では、業界に特有のタームが多く、技術そのものも決して分かりやすくないAIについて、広く社会とコミュニケーションするという、市民社会から不要な心配・懸念を取り除き、議論すべきテーマを提示するという意味で、公共性を帯びていると思っている。
今回のイベントに欠けていたのはむしろ、こうした各人の公共心と自己の距離とその意味づけ、そしてその呈示と批評に開かれなかったことだろう。
重要なのは、一方的な呈示で終わらず、批評に開かれることだ。
正直さと説得
イベント終了後、何人かの人にイベントで問いたかったことは何だったのかと聞かれ、「正直さです」と答えた。それはまさに、公共心について語る上で、正直さは切っても切り離せないからだ。
前述の通り、公共心とはあくまで自己の物語の呈示の中で機能する概念である。公共心という言葉を使いながら自らについて呈示した時、そこには正直さが求められる。なぜなら、外部からは、それが心からの語りなのか、あるいは虚構に満ちた、独善的で、傲慢で、自己満足のものでしかない語りなのか、区別することが容易ではないからだ。
例えば、私が現職にいる理由は先ほど述べた通りだが、これは極めて正直な、素直な語りだ。計画性はないし、ある意味での戦略もそこにはないので、「場当たり的な記述である」という批判は当然あり得るだろう。あるいは「自らの正当化でしかない」という批判もあるだろう。私の語りが正直である限り、これらの批判は有効であり、そして受け止め、必要に応じてリプライすべきフィードバックだ。しかし、ここに偽りがあれば、仮定の上の質問が特段の意味を成さないように、意味のない言葉のやり取りになってしまう。
正直さというのは何も、語りにおける情報の真偽だけに留まらない。語りそれ自体にも重要なピースである。
ある時、noteで「自己紹介」と題したポストを見かけた。特に何か意図があったわけではないが、読んでみると、高校の名前、大学の名前、大学で入っているサークルやその他コミュニティの名前と職務が羅列されていた。あるいは、SNSにひたすら、所属大学や所属ゼミ、インターン先やコミュニティなどをひたすら/(スラッシュ)で繋いでいる人がたくさんいる。100歩譲って、それだけならまだしも、それをまるで口語で読み上げるように、自己紹介を口から発する人も多い。
ここには正直さはない。なぜなら、それはあくまで自己を取り巻く環境の説明であって自己紹介の必要条件は満たしていない。むしろ、ある種のステータスのアピールでしかない。そうした置かれた状況の中で自分は何に関心があるのか、そしてなぜそうした状況にたどり着いたのか、そしてこれから何に取り組もうとしているのか。こうしたことのない自己呈示に正直さはないと言い切ってもいいだろう。
とは言え、こういう説明で何よりも自分が安心するという人の気持ちも数ミリ分かる。だからこそ大事なのが、正直さともう1つ、「説得」だ。極めて自分に正直になり、そしてある意味での後ろめたさや、恥ずかしさ、そして自慢したいことを、正直、そのままに自分で受け止めて、その上でこういう風に呈示しようと自分を言い聞かせる、説得することだ。「これは公共心の発露なのである!」とコンサルでブルシット・ジョブに勤しむ若者だって、そうして自分を説得して仕事に意味を見出す自由はある。
正直さと説得が揃ったら、いよいよそれを呈示し、そして批判や問いを受け止め、その呈示の仕方を更新していく。その過程で、公共心について向き合うことになるし、実際にどの程度自分の職業選択において重要なのか、給与を犠牲にできるものなのか、など考える。こうして人は社会とつながりを持つ。
言論空間の不在と偏在
先に、イベントに欠けていたものが公共心の自己呈示と批評だと述べたが、より正確にはイベント”だけ”に欠けていたものではない。この社会に欠けているものだ。ある意味での言論空間の不在の問題だ。
特に、最近話題に事欠かすことのない防衛テックの領域で顕著に表れる。Palantirは2026年4月、22箇条からなる企業理念のようなものを公表し、シリコンバレーは自らの台頭を可能にした国家に道義的な負債を負っている、エンジニアリング・エリートには国家防衛に参画する義務があるといった主張を打ち出した。これは米国のテック業界で大きな話題になったことに加え、国内でも関係者の間では話題になった。
一方で、この件が日本でほとんど報じられていないという指摘もある。Palantirは日本の防衛省とも関係を持つ企業であり、AIを軍事や諜報に使う企業がどのような価値観を持っているかは、日本にとっても無関係ではないはずだ。それにもかかわらず、この議論は日本語の言論空間にほとんど入ってきていない。目にするのは魂を失ったベンチャーキャピタリストによるPalantirのビジネスモデル驚き屋仕草だけだ。あるいは、「死の商人」という極めて抽象度の高い言葉による批判とも言えないようなレベルのレッテルだけだ。
これが積み上がらない議論の典型だと思う。海外で起きている重要な論点が、翻訳も検証もされないまま素通りし、日本側では防衛テックという言葉だけが静止画のように消費される。誰も反論せず、誰も引き継がず、次の議論の土台にもならない。
積み上げるために必要なこと
ではどうすればいいのか。イベントの後に考えたのは、大きな合意形成を急ぐ前に、まず小さく語る場をそれぞれが持つことの方が重要だということだった。
必要なことは3つある。1つ目は、各自がまず小さな場で自分の物語を自分なりに言葉にし、伝えたり、他者の語りに耳を傾けることだ。2つ目は、その場を少しずつ開いていき、閉じたコミュニティのままにしないことだ。3つ目は、開いた先で互いに参照し合うことだ。ただし参照は馴れ合いであってはならない。褒め合うためではなく、検証し批判し合うために参照する。
そしてもう1つ、地味だが欠かせないのが勉強することだ。知識の獲得は一晩では終わらないし、1本のポッドキャストを聞いただけでも終わらない。Palantirのステートメントにせよ、防衛テックをめぐる人権や監視の論点にせよ、背景を理解するには相応の時間がかかる。積み上げるとは、この地道な作業を継続することでしかない。
だから、意見を持つこと、そして意見を表明することを焦る必要もない。「沈黙は賛成と同じ」と言う権力者、「沈黙は傍観するのと同じ」と言う左派。彼らの主張は意見を示すことを急がせる。しかし、残念ながら現在の社会を取り巻く様々なことはそう簡単ではない。誠実な新聞報道や、解説書、時には業界人によるSNSでの発信などをなぞりながら、そして時に生成AIを活用しながら、「事実」を積み上げていき、意見を形成していけばいいはずだ。
ネクストアクション
Pint of Knowledgeのような、小さく気軽な場を作ることに挑戦してみたいと思っている。カンファレンスのような大きな場だけでは、今回のイベントで起きたのと同じように、前提の擦り合わせをしないまま各論に入ってしまう危険がある。その手前にある、少人数で物語を言語化し合うような場が必要だと思う。
具体的な企画はまだこれからだが、方向性としては、小さく語り合いながらも、議論を積み重ねていく場を作ること、そして仕事や私生活など、自分の日常と接続していくこと、そしてその環に少しずつ、他者を巻き込んでいくことにコミットしたい。