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社会思想と公共心に関するメモ

Essay ・ 2026年9月3日

「思想」がブームになっている

日本で「思想」が売れている。

象徴的なのが、Palantir共同創業者アレックス・カープらによる『テクノロジカル・リパブリック』だ。2026年3月に日本語版が出て以降、書評やイベント、要約記事が途切れない。同じ時期に、防衛テックへの関心も高まった。技術者が国家の防衛に才能を投じるべきかという問いが、投資の話題としてではなく、価値の話題として語られている。

もう1つの流れが「令和人文主義」である。哲学者の谷川嘉浩が2025年に提示した呼称で、ポッドキャストやYouTubeを通じて人文知を平易な言葉で届ける若い書き手たちの潮流を指す。谷川自身は、これを運動や党派ではなく時代の兆候として取り出したものだと説明している。

なぜ今なのか。私は、何をしてよく何をしてはいけないかを判断する拠り所が失われたからだと考えている。AIも防衛テックも、既存の職業倫理や法が答えを用意していない領域に踏み込んでいる。前例のない判断を迫られたとき、人は判断の根拠そのものを外部に求める。思想という言葉が売れるのは、その空白の裏返しだろう。

しかし、ここで問題が起きている。思想を求める動きが盛り上がる一方で、議論が積み上がっていない。話題は次々と現れ、次々と忘れられていく。本稿で考えたいのはこの点である。なぜ、思想が求められているのに議論が蓄積していないのだろうか。

答えを先取りすれば、リアリティ、思想、ナラティブという水準の異なる3つが、区別されないまま同じ棚に置かれているからだと僕は考えている。

3つの地平:リアリティ、思想、ナラティブ

まず、この3つを定義しておきたい。リアリティとは、今そこにある、あるいはあった現実を指す。思想とは、人々の思索の過程とその結果、そしてそれが体系化されたものを指す。そしてナラティブとは、現実認識と行為を説明する記述を指す。

この3つは知覚の領域では地続きに見える。だから混同される。だが、成立の条件がまったく違う。

リアリティは3つの層でできている

リアリティは1枚岩ではない。コミュニケーション研究者のハンナ・アドニーとシェリル・メーンは、現実を主観的現実、客観的現実、象徴的現実の3つに区別した(Adoni and Mane 1984=2002)。例えば、ある出来事という客観的現実がメディアによって象徴的現実として構築され、受け手はそれを主観的現実として認識する、という整理である。

重要なのは、この3つが一方通行ではなく循環することだ。記者の主観が原稿になり、組織の判断を経て象徴的現実としてのニュースになる。そのニュースを人々は主観的現実として受け取り、やがて客観的な事実として扱いはじめる。誰かの主観が、(回り回って)他の誰かにとっての客観になるのである。

私は修士論文で、この枠組みを使って日本のテレビの気候変動報道を分析した。結果は分かりやすい。テレビの猛暑報道は2022年の平均101本から2024年には781.4本へと増えた一方、同じ記事の中で気候変動に触れる割合は1%前後で横ばいだった(第1回)。「暑い」という主観的現実があり、気温上昇という客観的現実がある。しかし両者をつなぐ象徴的現実が供給されていない。

現実は与えられるものではなく、構成されるものだ。この前提を落とすと、次の2つの区別もできなくなる。

日本に欠けていたのは思想ではなく蓄積のプロセスだった

まるで日本には思想がないかのように語られることがある。これは事実として誤っている。

儒学があり、国学があった。世阿弥の『風姿花伝』は芸の伝承をめぐる体系的な思索であり、福沢諭吉の『文明論之概略』は文明の位置づけをめぐる理論的な試みだった。松沢弘陽の『日本政治思想』では、福沢諭吉、中江兆民といった思想家が、明治期以降、どのように社会があるべきかを問い続けた軌跡を描いている。3つのリアリティが作る時代状況に応じて、現実を改善するための概念を練り、来るべき未来を構想する営みは、この国でも途切れずに続いてきた。

丸山眞男が『日本の思想』で問題にしたのも、思想の不在ではなかった。彼が指摘したのは、次々と入ってくる新しい思想が過去の思想と対決することなく雑居し、座標軸として構造化されないことだった。つまり、なかったのは思想ではなく、それを積み上げていくプロセスである。

この診断は残念ながら今でもなお使える。むしろ、情報流通の速度が上がった分だけ、状況は明治期よりも悪化しているのかもしれない。

ナラティブは伝達されて初めて成立する

3つ目のナラティブは、あるリアリティと思想を基盤にしながら、誰かの行為と、その目的と、目的のための手段を物語として記述し、伝達するものだ。

思想との決定的な差は、成立の条件にある。思想は1人でも完結する。誰にも読まれない思索も思想である。しかしナラティブは、伝達される相手に届いて初めて成立する。ナラティブはある種のメディウムなのだ。

だから、ナラティブは受け手に合わせて最適化される。分かりやすさが要求され、複雑さが削られ、多くの場合、対立構造が強調される。

それ自体は悪ではない。伝わらない主張は存在しないのと同じだからだ。問題は、最適化された記述が、最適化される前の思想と同じものとして扱われるときに起きる。

3つを区別しない受け手が、議論の蓄積を止めている

今、この3つ(リアリティ、思想、ナラティブ)は相互に相互を肯定し、否定するための道具として使われている。自分の主観的現実を裏づけるために思想が引かれ、思想を広めるためにナラティブが作られ、そのナラティブが象徴的現実として流通し、また誰かの主観的現実を強化する。前節で見た循環が、そのまま自らの世界理解の回路となっている。

そして僕は、この状況を悪化させているのは語り手ではなく、受け手の側にあると考えている。

令和人文主義に対しては、すでにいくつもの批判がある。批評家の小峰ひずみは、これを「正社員様の哲学」と呼んで、知の商業化を隠蔽するものだと論じた(これ自体には批判も寄せられているが)。原典との格闘や方法論の吟味という知的過程が見えず、歴史が年表に、概念が図式に、思想家がキャラクターに変換されていくという指摘もある。

しかし、僕が問題意識を抱いているのは、そこではない。

届ける努力をしている語り手より、届けられたものをどう扱っているかの方だ。Palantirのビジネスモデルを解説して驚いてみせるアカウント。哲学書でもなんでもない本を1冊読んで人文社会科学における蓄積を理解した気になるビジネスパーソン。彼らは3つを使い分けないどころか、背景にある議論の複雑さに触れようとしない。ナラティブを受け取り、それを”思想”として消費し、飽きれば次の話題に移る。全ては消費の対象であり、積み上げられていくことはない。

皮肉なのは、彼らの多くが大学で文系の教育を受けていることだ。テクストを読む訓練も、批判的に考える訓練も、本来は受けているはずだった。それが働いていないとすれば、教育の問題か、受け取り方を規定する情報環境の問題か、あるいは両方だろう。

もちろん反論もありうる。入り口が広がること自体に価値があり、そこから原典に進む人が増えるなら、多少の単純化は必要なコストだという見方だ。谷川が令和人文主義を運動ではなく兆候として提示したのも、この変化を評価と断罪の手前で記述しようとしたからだろう。この反論には理がある。

僕の立場は、入り口の拡大そのものではなく、入り口で止まったまま語り始めることへの違和感だと言い直してもいいだろう。

そして、近年の動画メディア、Podcast/Video Podcastの流行は、議論の蓄積、積み上げの不在という問題意識から見れば、危惧すべき状況だろう。

例えば、PalantirのCEO、Alex Karpがblogや本を書くのではなく、自社のYouTubeや動画メディアでばかり発信していたら、『テクノロジカル・リパブリック』とその後の「防衛テックブーム」は大きく違った語られ方をしていたのではないだろうか。動画はその瞬間に求められるストーリーテリングという行為のメディウム(媒介物)であって、言論空間のためのメディウムでは根本的にないのではないだろうか。そして、ナラティブを共有するためのメディウムとしてはやはり、blogが有効であることは既に述べている

思想に求めるべきは代案ではなく、議題を立てることだ

ではそもそも、私たちは思想に何を期待しているのか。おそらく多くの場合、現状に対する代案、現状を理解し、自らの立場を決定するための拠り所である。今のAI産業のあり方はおかしい、今の安全保障のあり方はおかしい、だから別の原理を示してほしい、と。

ここで、ニクラス・ルーマンの議論が効いてくる。ルーマンは新しい社会運動を「オルタナティブなきオルタナティブ」と呼んだ。近代社会は機能的に分化した社会であり、その機能分化そのものには代案が存在しない。だから代案には代案がない。オルタナティブ新聞もまた印刷されなければならない、という彼の一文がこの事情を端的に示している(Luhmann 1996=2013)。

これは運動や思想を無意味だと言っているのではない。ルーマン自身、抗議運動はテーマを発見しそれを討論の対象にしてゆくという点で歴史的な功績を果たしていると述べ、諸テーマを公共的議論に導入し、官僚制の荒廃を可視化する機能を認めている。私は学部の卒業論文でこの抗議運動論を検討したが、そこで残った結論はこの一点だった。運動の価値は、現状ではない何かを提示することではなく、既に起きている問題を白日の下に晒し、議論の俎上に乗せることにある。

思想についても同じことが言えると思う。『テクノロジカル・リパブリック』に代案を求めても、おそらく出てこない。あの本が果たしたのは、技術者と国家の関係という論点を議論可能な形で差し出したことだ。そこまでが思想の仕事であり、その先にあるのは、差し出された議題をどう扱うかという私たちの側の問題である。

日本に思想がないわけではない。積み上げがないのである。そして、積み上がらないのは、良い思想が足りないからではない。議題を受け取って議論に変える場が足りないからだ。

公共心とは、議論を公共の場に置き続ける態度だ

その場の担い手として、僕はやはりメディアに期待したい。ただし、期待の仕方には注意が要る。

メディアは期待され、そして失望されてきた。そう書きたくなるが、林香里は日本の状況をもう少し冷たく診断している。英国や米国で起きているのがメディア不信だとすれば、日本で起きているのは無関心だという指摘だ(林 2017)。メディアの問題を専門家が指摘しても関心は集まらず、より良いジャーナリズムをめぐる論争にもならないまま、接触頻度だけが落ちていく。失望は関心の一形態だが、無関心はそうではない。

だとすれば、批判も期待も、それだけでは空回りする。誰かが議題を立て、それを場に置き、記録し、次の書き手が参照できる状態にしておくしかない。1つの論点をめぐって複数の書き手が時間をかけて往復すること、そしてその往復を後から辿れるようにすること。地味だが、丸山の診断に対する処方はこれ以外にない。

僕が所属するPMI ThinkTankでは、「ThinkTank with Media」というコンセプトを掲げている。シンクタンクが調査と提言を出し、メディアがそれを報じるという分業ではなく、情報生産そのものを言論空間への参加として設計しようという試みだ。

シンクタンカーとして、編集者として、動き方を変えながら日本に思想を積み上げていく。うまくいくかは分からないが、この賭けには乗る価値があると思っている。

公共心とは、立派な思想を持つことだけではないだろう。差し出された議題を受け取り、検証し、反論し、その記録を次の誰かのために残しておくこと。売れた思想を、売れた後も扱い続ける態度のことだと思う。